フォトアルバム

フォトアルバム

Powered by Six Apart
Member since 06/2012

好きな店

  • ネットショップ javari のメンズシューズ
     ☆何度でも無料でキャンセルできる
  • 東京都中央区銀座5 新富寿し
     ☆宮内庁の総料理長がここで修業
  • 松山市大街道1丁目 中野本舗
     ☆薄墨羊羹は日本を代表する銘菓
  • 東京都杉並区荻窪 ペペロンチーノ
     ☆マスカルポーネのキッシュ
  • 京都市中京区三条通東入 田毎本店 
     ☆数量限定みそぎそば
  • 京都市上京区出町通 ふたば
     ☆豆餅&水無月
  • 東京都千代田区内幸町 宇和
     ☆鯛めし&お昼の重ね弁当
  • 東京都港区虎ノ門 つる寿
     ☆お昼の盆盛り定食&おせち
  • 岐阜市美園町 帽子屋GOSABURO
     ☆James Lock さながらの中折帽 
  • 札幌市北区北18西5 おし鳥
     ☆生まぐろの赤身の握り
  • 東京都小平市学園西町 キッチンK
     ☆銀座でも行列のできるビクトリアカツ

旅行・おでかけ Feed

2012年12月23日 (日)

しまひとみの映画鑑賞2 コーリャ愛のプラハ

 

主人公のロウカは元チェコフィルのチェロ奏者。弟の亡命でオーケストラを追われ、アルバイトの梯子演奏で細々と、しかし自由奔放に暮らしている。一流の演奏家を目指すなら、結婚すべきではないという父親の遺言に従い、55歳の現在まで多くの女性を相手に、その日暮らしながらも結構楽しい毎日のようだ。

   

Photo

チェコフィルの本拠ルドルフィーヌム「芸術家の家」

ここにドヴォジャーク・ホールがある

 

プラハの別名は「百塔の街」。それくらい尖塔を伴う建物が多いのだが、ロウカ自身も「私の塔」と呼ぶプラハ城と聖ミクラーシュ教会の見えるアパートの最上階が彼のねぐらだ。そんなある日、友人に偽装結婚の話を持ちかけられ、溜まりに溜まった借金の返済と中古のトラバントの購入費用の足しに、一口乗っかることになった。

 

Img_0231

聖ミクラーシュ教会 と プラハ城 そして ヴルタヴァ川

 

相手は自分の娘ほども年の離れた子連れのロシア美人。ドイツにいる実の夫を訪ねるためソ連を出国する苦肉の策だった。派手な結婚式と形ばかりの初夜を済ませて間もなく、彼女は5歳の息子コーリャを置き去りにして、恋しい夫のもとへと旅立ってしまう。母親の出奔とチェコで暮らす大伯母の急死により、コーリャの扶養義務が継父のロウカに生じるのだが、突然、降って湧いた事態にロウカは戸惑いを隠せない。

 

Photo_2

プラハ城から 見た プラハ市街

     右上の ドームが 聖ミクラーシュ教会

 

当時冷戦下のプラハでは、ソ連との友好を確認しあう行事のひとつとして、両国国旗をアパートの窓に飾りつけるコンテストがあったようで、コーリャが「僕らのは美しい」と言えば、ロウカは「お前のパンツのように真っ赤だ」と応戦する。卵ひとつ食べさせるにも「お前の国の鶏が産んだ卵」だとか、ソ連の駐留軍を見つけては「お前の国の軍隊は居座るが、お前はさっさと帰る」とか、子ども相手に大人げないロウカである。

 

Photo_3

カレル橋から 見た ヴルタヴァ川

 

コーリャはロウカが嫌い。ロウカにとってもコーリャは厄介者。横断歩道でコーリャの手を取ろうにも、にべもなく拒絶されてしまう。ところが風呂に入れ、食事をさせ、映画を見せ、外に連れ出し、結構、甲斐甲斐しく世話を焼いているうちに、いつしか「お父さん」と呼ばれ、強く手を握り締められるまでになるのだから驚きである。厄介払いのため、早々と福祉局に引き取りの申請書を提出してしまったものの、いざ引き取られる段になると、今では実の子のように思えるコーリャを連れて一目散に逃げ出すのだから、おかしくて笑ってしまう。

 

Img_0432

市中から 見る プラハ城

 

実はこの人間関係の変容、間もなく訪れるであろう1989年のビロード革命の予兆であり、亡命中の名指揮者、ラファエル・クーベリックの帰郷とロウカ自身のオーケストラ復帰の伏線なのだが、スメタナの連作交響詩「わが祖国」の第5曲「ターボル」と第6曲の「ブラニーク」の最も劇的な部分を効果的に用いて、無血革命の様子と二人の音楽家の復帰を重ね合わせながら、一気に大団円へと突き進んで行く終盤は圧巻である。

 

Img_0441_2

プラハ城 正門 

  オバマ大統領も ここ プラハで 核廃絶を 宣言した

 

Img_0441_3半世紀近い社会主義体制の影響か、現在、チェコ人の半数以上が無宗教なのだという。プラハを歩いてみれば一目瞭然だが、街中、至る所に大小様々な教会や修道院が点在し、ここが神聖ローマ帝国の都として中欧における第2のローマであったことを思い知らされる。チェコ最古のビール酒房ウフレクは1499年の創業だが、建物自体は12世紀創立の修道院である。

 

Img_0395

国民劇場 から 徒歩5分

 ここで 喉を潤して オペラへと 繰り出したの だろうか

 

韓国人が日本人を嫌うのと同様、チェコ人はドイツ人が嫌いだ。理由はドイツの大学史に関する書物の最初の1頁をめくってみれば、たちどころに明らかになる。そこには「ドイツ最古の大学はプラハのカレル大学である」と記されている。ハプスブルク家によるカトリックの支配は、神聖ローマ帝国の都プラハを形作り、スラブ民族のボヘミアにも及んだのである。プラハの旧市街広場には宗教改革者ヤン・フス像が設置されているが、この人こそルターに先立つこと百年、腐敗著しいカトリックに敢然と立ち向かい非業の死を遂げた人であった。ハプスブルク家が、ローマカトリックの権威を笠に着た神聖ローマ帝国(ナチスドイツはここから数えて3番目の帝国に当たる)の盟主として、スラブの人々にもドイツ語を強要したため、日常語としての母国語を奪われた人々が唯一使用を許されたマリオネットの舞台で反骨精神を培っていったのは周知のとおり。

 

旧市街の カレル大学 本部

Universita_carolina

UNIVERSITAS CAROLINA

 

14世紀 1348年創設当時の 出窓

Photo_4

この出窓の 真向かいに エステート劇場

 

Photo_5

モーツァルト 自身の手で ドン・ジョバンニを 初演

 

Img_0287

旧市街広場の ヤン・フス像

 
 
2012年7月23日(月)、プラハ旅行に旅立つ朝、NHKニュースで円が対ユーロ相場で11年8か月ぶりに高値を記録したことを伝えていた。11年秋には120円したユーロがこのところ100円を切る水準で推移していたので想定の範囲内ではあったが、実にグッド・タイミングだった。プラハ・ルズィニエ空港とホテル間の送迎をプラハ・エアポート・トランスファーという業者に事前に依頼し、日本円で支払う契約を交わしていたのだが、遠く離れたヨーロッパの地で、いざ日本の紙幣を手渡す段になり、ソウルで日本円を使用した時と同様、ある種複雑な気持ちに襲われた。日本でも米軍基地のある街では普通に見られる光景なのだろうが。ほぼレートどおり、1コルナ=4円での請求だった。旧市街広場からカレル橋、カレル橋からプラハ城へと至る道すがら「ムッシュ!両替しませんか」と声をかけられ続けることになったのだが、これには閉口させられた。通貨も欲しがられるうちが華。国民の預貯金が国の借金としてほぼ全額食い潰されてしまった今日、いつ東電株と同じ運命を辿るかわかったものでない。

 

Img_0422

カレル橋から 見た プラハ城

 

空港からホテルまで、とにかくSAMSUNGの広告が目についた。運転手も日本のはありませんと気の毒そうに言っていた。実際、5日の滞在で目にした日本は、地下鉄C線ヴィシェフラット駅のコングレス・センターのPanasonicの広告、どこか怪しげな1軒の寿司バー、レクサス他数台の車くらいのもの。幹線道路のディーゼル臭の物凄かったこと。夕暮れのヴルタヴァ河畔を中国と韓国の団体さんが何組か楽しげに散策。高度成長期、セーヌ河辺りでも同じような同胞の姿が見られたに相違あるまい。ホテルのTVチャンネルは20がNHKで21がCCTV。他にはドヴォジャーク・ホール向かいの8か国語表示の円柱広告塔の一番下に日本語で「プラハのイベントと文化」の表示が。私のように極東からでも丸1日かけてわざわざ見物に訪れたい街、実際、真夏でも真冬でも世界中から人々が集まってくる街、それがプラハ。

 

Img_0313

地下鉄C線 ヴィシェフラット駅 を出ると

 

チェコ 英 独 仏 露 西 伊 日本の 各語 

Photo

8か国語 プラハの イベントと 文化 広告塔

 

1990年、統一ドイツのケルン中央駅でのこと。当時、多く見られたトルコ人労働者の子どもたちがギブミー・マニーをしているのを目の当たりにした。今回も、地下鉄B線のムステック駅でベビーカーの若い母親に無心された。財布からコインを出して見せられ、この子のミルク代がないのだという。近くに駅員がいるのを承知で現地語で必死に訴えるので、演技かもしれないと思いつつ紙入れから10ユーロ出して渡した。目ざとくもう10ユーロあるのを見つけ、それも欲しいというので、拒否した。ビール酒房ウフレクの飲食代が10ユーロ分減ったまでのこと。ウフレクの一杯59コルナのビールはプラハでは最も高いらしい。それでもチェコ一と評判の名物の黒ビール、13度、0.4Lが日本円で240円ほど。長居しなければ、軽い食事をしても10ユーロ=250コルナ=1000円でおつりがくる。キノコとジャガイモのスープも59コルナ。ウフレクで注意すべきは、アニスなどの香草で作ったべへロフカを「食前酒」と称して配って歩くことだ。これはサービスのように見せかけた一種の押し売りである。美しい琥珀色の液体が小さいリキュールグラスで配られる。一杯79コルナ320円ほどだがビールより高い額が、しっかり勘定書きに追加されている。甘いけれど匂いはかなりきつい。口に合わない人も多いだろう。

 

Img_0459

黒ビール ジャガイモのスープ べへロフカ

 

「コーリャ 愛のプラハ」はロウカとコーリャという異質で対立しあうもの同士が、言語、民族や文化、習慣や偏見を超えて、理解し愛し合えることを両者の心の変容を描くことで表現し、世界中の共感を呼び、アカデミー外国語賞はじめ主要な映画賞を総なめにした秀作である。

 

Img_0545

モーツァルトの ベルトラムカ荘  動画

 

奇しくも今回の旅の締めくくりは、モーツァルトが何度も滞在し「ドン・ジョヴァンニ」を完成させたベルトラムカ荘だった。地下鉄B線のアンデル駅下車、徒歩で15分ほどのところに静かに佇んでいた。そこは市中の喧騒から隔てられて静謐に支配され、今にもモーツァルトが現れそうな雰囲気を醸し出していた。アンデル駅は地下鉄とトラムと市バスの乗り換え駅で、コーリャの撮影場所のひとつでもある。映画では、地下鉄B線に乗車中、ロウカは女性に、コーリャは仔犬に気を取られている間にはぐれてしまい、お互い右往左往しながらドラマチックに再会を果たした駅である。それは両者が強い絆で結ばれたことを再確認しあうシーンで、この映画の頂点をなすと言っても過言でない、それ程に感動的な場面だった。駅の出口は2か所、ロウカはバスターミナルのある正面へのエスカレーターから、コーリャはベルトラムカ荘方面へと向かう反対側のエスカレーターから上がってくる。そして「コーリャ」と呼びかけるロウカの大きな声を聴いて駆け出し、コンコースの真ん中どころで再会を果たした。ちなみに、撮影時、この駅は「モスクワ通り駅」と呼ばれ、赤い石板の壁にクレムリンの装飾が施されていた。現在はアンデル駅と改称され、写真のようにプラハとモスクワの名前が対をなし、かつての友好のシンボルとして残されている。

 

Img_0530_3    Img_0531

 

この映画、かなり作為的なものの部類に属し、一つ間違えば相当嫌味なものになっていたのではないかと危惧されたのだが、冒頭より、美しい画と音楽が実にテンポよく絶妙に配され、自己中で子ども同然の大人として見られがちだった主人公ロウカの実像も徐々に明らかになっていき、彼のユーモア溢れる反骨精神が、綿々と続く他所者の支配者の圧政に耐え続けたチェコの一般民衆の生き様と重なり、奥深く味わい深い一本に仕上がったように思われる。繰り返しの鑑賞にも耐えられる飽きの来ない佳作。ひとみが自信をもってお薦めできる極上の一本。

「のだめカンタービレ」や「プラハの恋人」のオタクにも鑑賞させてみたいものだが如何だろうか。

 

 

しまひとみのプラハ旅行記(写真集&動画集)

2012年7月

 

Img_0187

スメタナホールのある市民会館

 

Img_0207

日没直後のヴルタヴァ川

 

2012年7月23日(月)午後9時  動画

 

Img_0231

ヴルタヴァ川とプラハ城

 

Img_0235_3

夕暮れのプラハ城

 

Img_0247_2

旧市街のティーン教会

 

Img_0248

漆黒の夜に浮かび上がるティーン教会

 

Img_0257

ドン・ジョヴァンニ初演のエステート劇場

 

Img_0256

エステート劇場

 

Img_0315

チェコ建国の地ヴィシェフラット「高い城」

 

Img_0323

ヴィシェフラットへ

 

Img_0333_3

聖マルティン教会のロトゥンダ

  

Img_0340

ヴィシェフラットの聖ペテル・聖パヴェル教会

 

2012年7月24日(火)午後1時 動画

 

Img_0354_2

交響詩「わが祖国」のスメタナの墓碑

 

Img_0371

ドヴォジャークの墓碑

 

Photo_2

建国の王女リブシェとその夫プシェミスル

 

Img_0381

伝説の勇女シャールカ像

 

Img_0386

ヴィシェフラットからヴルタヴァを望む

 

Img_0385

ヴィシェフラット 緑の絨毯

 

Img_0390

ポストモダンのダンシングビル

 

Img_0395

創業1499年のビール酒房 ウ フレク

 

Img_0402

ウ フレクの時計

 

Img_0399

黒ビールとグラーシュ・クネドリーキ添え

 

Img_0459

ジャガイモとマッシュルームのスープ

 

Img_0452

ウ フレクから徒歩5分の国民劇場  動画

 

Img_0454

レギー橋とプラハ城

 

Img_0528

市民会館内のカフェで

 

Img_0415

カレル橋東詰の聖サルヴァートル教会

  

2012年7月25日(水)午後7時 動画

オルガンコンサートから

 

モーツァルト「アヴェ・ヴェルム・コルプス」

バッハ「トッカータとフーガ BWV 565

シューベルト「アヴェ・マリア」

 

Img_0423

カレル橋からヴルタヴァを望む

 

Img_0437

プラハ城からプラハ市街を望む

 

Img_0444

プラハ城大統領府と聖ヴィート大聖堂

 

Img_0447

聖ヴィート大聖堂

 

Img_0290

宗教改革者 ヤン・フス 像

 

Img_0270

日の出直後の旧市街広場

 

Img_0276_2

旧市庁舎天文時計

 

Img_0286

旧市街聖ミクラーシュ教会

 

Img_0297

旧市街 市民会館西隣 5つ星の「ボヘミア」

 

Img_0561

寝室にも旧市街のリトグラフが

 

Img_0298

グランドホテル・ボヘミアの朝食

 

Img_0484

ホテルでも ウ フレクのジョッキで黒ビール

 

Img_0530

地下鉄B線アンデル駅構内

 

Img_0531

地下鉄B線アンデル駅構内エスカレーター

 

映画「コーリャ 」(1996)にも登場。 

 

Img_0532

ベルトラムカ荘へ

 

Img_0538

モーツァルト縁のベルトラムカ荘

 

Img_0542_2

ベルトラムカ荘

  

2012年7月26日(木) 午後1時  動画

 

Img_0549

盛夏のベルトラムカ荘

 

 

今回の旅のベストショット3選

 

Img_0294

No.3 : 旧市街広場から火薬塔へと続く石畳

 

Img_0278

No.2 : 日の出直後の旧市街広場

 

Img_0252_2

No.1 : 漆黒の夜に浮かび上がる旧市庁舎時計台

      
 

 

☆しまひとみのギリシア旅行記☆

☆プラハ旅行記2012「写真集&動画」編☆

☆しまひとみの映画鑑賞1 「きっと忘れない」☆

☆しまひとみの映画鑑賞3 「アメリ」☆

 

 

しまひとみの 映画鑑賞2 「コーリャ  愛のプラハ」

2012/08/24 (1st Version)

 

 

しまひとみの プラハ旅行記                      2012年7月22日~28日

グランドホテル・ボヘミアに4泊して「石畳の迷宮」を堪能してきました。まず写真集と動画をアップします。

☆しまひとみの映画鑑賞2「コーリャ 愛のプラハ」 2012/8/24☆

☆しまひとみの映画鑑賞2「コーリャ 愛のプラハ」 2012/12/23☆ 

 

Img_0187

スメタナホールのある市民会館

Img_0207

日没直後のヴルタヴァ川   

2012年7月23日(月)午後9時    動画

Img_0231

ヴルタヴァ川とプラハ城

Img_0235_3

夕暮れのプラハ城

Img_0247_2

旧市街のティーン教会

Img_0248

漆黒の夜に浮かび上がるティーン教会

Img_0257

ドン・ジョヴァンニ初演のエステート劇場

Img_0256

エステート劇場

Img_0315

チェコ建国の地ヴィシェフラット「高い城」

Img_0323

ヴィシェフラットへ

Img_0333_3

聖マルティン教会のロトゥンダ

Img_0340

ヴィシェフラットの聖ペテル・聖パヴェル教会

2012年7月24日(火)午後1時 動画

Img_0354_2

交響詩「わが祖国」のスメタナの墓碑

Img_0371

ドヴォジャークの墓碑

Photo

建国の王女 リブシェ と その夫 プシェミスル

Img_0381

伝説の勇女シャールカ像

Img_0386

ヴィシェフラットからヴルタヴァを望む

Img_0385

ヴィシェフラット  緑の絨毯

Img_0390

ポストモダンのダンシングビル

Img_0395

創業1499年のビール酒房  ウ フレク

Img_0402

ウ フレクの時計

Img_0399

黒ビールとグラーシュ・クネドリーキ添え

Img_0459

ジャガイモとマッシュルームのスープ

Img_0452

ウ フレクから徒歩5分の国民劇場   動画

Img_0454

レギー橋とプラハ城

Img_0528

市民会館内のカフェで

Img_0415

カレル橋東詰の聖サルヴァートル教会

2012年7月25日(水)午後7時 動画

オルガンコンサートから

モーツァルト「アヴェ・ヴェルム・コルプス」

バッハ「トッカータとフーガ BWV 565

シューベルト「アヴェ・マリア」

Img_0423

カレル橋からヴルタヴァを望む

Img_0437

プラハ城からプラハ市街を望む

Img_0444

プラハ城大統領府と聖ヴィート大聖堂

Img_0447

聖ヴィート大聖堂

Img_0290

宗教改革者 ヤン・フス 像

Img_0270

日の出直後の旧市街広場

Img_0276_2

旧市庁舎天文時計

Img_0286

旧市街聖ミクラーシュ教会

Img_0297

旧市街  市民会館西隣   5つ星の「ボヘミア」

Img_0561

寝室にも旧市街のリトグラフが

Img_0298

グランドホテル・ボヘミアの朝食

Img_0484

ホテルでも ウ フレクのジョッキで黒ビール

Img_0530

地下鉄B線アンデル駅構内

Img_0531

地下鉄B線アンデル駅構内エスカレーター

映画「コーリャ 」(1996)にも登場。 

Img_0532

ベルトラムカ荘へ

Img_0538

モーツァルト縁のベルトラムカ荘

Img_0542_2

ベルトラムカ荘 

2012年7月26日(木)午後1時 動画

Img_0549

盛夏のベルトラムカ荘

今回の旅のベストショット3選

Img_0294

No.3 : 旧市街広場から火薬塔へと続く石畳

Img_0278

No.2 : 日の出直後の旧市街広場

Img_0252_2

No.1 : 漆黒の夜に浮かび上がる

      旧市庁舎時計台

 

 

しまひとみの映画鑑賞2 コーリャ愛のプラハ

 

主人公のロウカは元チェコフィルのチェロ奏者。弟の亡命でオーケストラを追われ、アルバイトの梯子演奏で細々と、しかし自由奔放に暮らしている。一流の演奏家を目指すなら、結婚すべきではないという父親の遺言に従い、55歳の現在まで多くの女性を相手に、その日暮らしながらも結構楽しい毎日のようだ。

   

Photo

チェコフィルの本拠ルドルフィーヌム「芸術家の家」

ここにドヴォジャーク・ホールがある

 

プラハの別名は「百塔の街」。それくらい尖塔を伴う建物が多いのだが、ロウカ自身も「私の塔」と呼ぶプラハ城と聖ミクラーシュ教会の見えるアパートの最上階が彼のねぐらだ。そんなある日、友人に偽装結婚の話を持ちかけられ、溜まりに溜まった借金の返済と中古のトラバントの購入費用の足しに、一口乗っかることになった。

 

Img_0231

聖ミクラーシュ教会 と プラハ城 そして ヴルタヴァ川

 

相手は自分の娘ほども年の離れた子連れのロシア美人。ドイツにいる実の夫を訪ねるためソ連を出国する苦肉の策だった。派手な結婚式と形ばかりの初夜を済ませて間もなく、彼女は5歳の息子コーリャを置き去りにして、恋しい夫のもとへと旅立ってしまう。母親の出奔とチェコで暮らす大伯母の急死により、コーリャの扶養義務が継父のロウカに生じるのだが、突然、降って湧いた事態にロウカは戸惑いを隠せない。

 

Photo_2

プラハ城から 見た プラハ市街

     右上の ドームが 聖ミクラーシュ教会

 

当時冷戦下のプラハでは、ソ連との友好を確認しあう行事のひとつとして、両国国旗をアパートの窓に飾りつけるコンテストがあったようで、コーリャが「僕らのは美しい」と言えば、ロウカは「お前のパンツのように真っ赤だ」と応戦する。卵ひとつ食べさせるにも「お前の国の鶏が産んだ卵」だとか、ソ連の駐留軍を見つけては「お前の国の軍隊は居座るが、お前はさっさと帰る」とか、子ども相手に大人げないロウカである。

 

Photo_3

カレル橋から 見た ヴルタヴァ川

 

コーリャはロウカが嫌い。ロウカにとってもコーリャは厄介者。横断歩道でコーリャの手を取ろうにも、にべもなく拒絶されてしまう。ところが風呂に入れ、食事をさせ、映画を見せ、外に連れ出し、結構、甲斐甲斐しく世話を焼いているうちに、いつしか「お父さん」と呼ばれ、強く手を握り締められるまでになるのだから驚きである。厄介払いのため、早々と福祉局に引き取りの申請書を提出してしまったものの、いざ引き取られる段になると、今では実の子のように思えるコーリャを連れて一目散に逃げ出すのだから、おかしくて笑ってしまう。

 

Img_0432

市中から 見る プラハ城

 

実はこの人間関係の変容、間もなく訪れるであろう1989年のビロード革命の予兆であり、亡命中の名指揮者、ラファエル・クーベリックの帰郷とロウカ自身のオーケストラ復帰の伏線なのだが、スメタナの連作交響詩「わが祖国」の第5曲「ターボル」と第6曲の「ブラニーク」の最も劇的な部分を効果的に用いて、無血革命の様子と二人の音楽家の復帰を重ね合わせながら、一気に大団円へと突き進んで行く終盤は実に圧巻である。

 

Img_0441_2

プラハ城 正門 

  オバマ大統領も ここで 核廃絶を 宣言した

 

Img_0441_3半世紀近い社会主義体制の影響か、現在、チェコ人の半数以上が無宗教なのだという。プラハを歩いてみれば一目瞭然だが、街中、至る所に大小様々な教会や修道院が点在し、ここが神聖ローマ帝国の都として中欧における第2のローマであったことを思い知らされる。チェコ最古のビール酒房ウフレクは1499年の創業だが、建物自体は12世紀創立の修道院である。

 

Img_0395

国民劇場 から 徒歩5分

 ここで 喉を潤して オペラへと 繰り出したの だろうか

 

韓国人が日本人を嫌うのと同様、チェコ人はドイツ人が嫌いだ。理由はドイツの大学史に関する書物の最初の1頁をめくってみれば、たちどころに明らかになる。そこには「ドイツ最古の大学はプラハのカレル大学である」と記されている。ハプスブルク家によるカトリックの支配は、神聖ローマ帝国の都プラハを形作り、スラブ民族のボヘミアにも及んだのである。プラハの旧市街広場には宗教改革者ヤン・フス像が設置されているが、この人こそルターに先立つこと百年、腐敗著しいカトリックに敢然と立ち向かい非業の死を遂げた人であった。ハプスブルク家が、ローマカトリックの権威を笠に着た神聖ローマ帝国(ナチスドイツはここから数えて3番目の帝国に当たる)の盟主として、スラブの人々にもドイツ語を強要したため、日常語としての母国語を奪われた人々が唯一使用を許されたマリオネットの舞台で反骨精神を培っていったのは周知のとおり。

 

旧市街の カレル大学 本部

Universita_carolina

UNIVERSITAS CAROLINA

 

14世紀 1348年創設当時の 出窓

Photo_4

この出窓の 真向かいに エステート劇場

 

Photo_5

モーツァルト 自身の手で ドン・ジョバンニを 初演

 

Img_0287

旧市街広場の ヤン・フス像

 
 
2012年7月23日(月)、プラハ旅行に旅立つ朝、NHKニュースで円が対ユーロ相場で11年8か月ぶりに高値を記録したことを伝えていた。11年秋には120円したユーロがこのところ100円を切る水準で推移していたので想定の範囲内ではあったが、実にグッド・タイミングだった。プラハ・ルズィニエ空港とホテル間の送迎をプラハ・エアポート・トランスファーという業者に事前に依頼し、日本円で支払う契約を交わしていたのだが、遠く離れたヨーロッパの地で、いざ日本の紙幣を手渡す段になり、ソウルで日本円を使用した時と同様、ある種複雑な気持ちに襲われた。日本でも米軍基地のある街では普通に見られる光景なのだろうが。ほぼレートどおり、1コルナ=4円での請求だった。旧市街広場からカレル橋、カレル橋からプラハ城へと至る道すがら「ムッシュ!両替しませんか」と声をかけられ続けることになったのだが、これには閉口させられた。通貨も欲しがられるうちが華。国民の預貯金が国の借金としてほぼ全額食い潰されてしまった今日、いつ東電株と同じ運命を辿るかわかったものでない。

 

Img_0422

カレル橋から 見た プラハ城

 

空港からホテルまで、とにかくSAMSUNGの広告が目についた。運転手も日本のはありませんと気の毒そうに言っていた。実際、5日の滞在で目にした日本は、地下鉄C線ヴィシェフラット駅のコングレス・センターのPanasonicの広告、どこか怪しげな1軒の寿司バー、レクサス他数台の車くらいのもの。幹線道路のディーゼル臭の物凄かったこと。夕暮れのヴルタヴァ河畔を中国と韓国の団体さんが何組か楽しげに散策。高度成長期、セーヌ河辺りでも同じような同胞の姿が見られたに相違あるまい。ホテルのTVチャンネルは20がNHKで21がCCTV。他にはドヴォジャーク・ホール向かいの8か国語表示の円柱広告塔の一番下に日本語で「プラハのイベントと文化」の表示が。私のように極東からでも丸1日かけてわざわざ見物に訪れたい街、実際、真夏でも真冬でも世界中から人々が集まってくる街、それがプラハ。

 

Img_0313

地下鉄C線 ヴィシェフラット駅 を出ると

 

チェコ 英 独 仏 露 西 伊 日本の 各語 

Photo

8か国語 プラハの イベントと 文化 広告塔

 

1990年、統一ドイツのケルン中央駅でのこと。当時、多く見られたトルコ人労働者の子どもたちがギブミー・マニーをしているのを目の当たりにした。今回も、地下鉄B線のムステック駅でベビーカーの若い母親に無心された。財布からコインを出して見せられ、この子のミルク代がないのだという。近くに駅員がいるのを承知で現地語で必死に訴えるので、演技かもしれないと思いつつ紙入れから10ユーロ出して渡した。目ざとくもう10ユーロあるのを見つけ、それも欲しいというので、拒否した。ビール酒房ウフレクの飲食代が10ユーロ分減ったまでのこと。ウフレクの一杯59コルナのビールはプラハでは最も高いらしい。それでもチェコ一と評判の名物の黒ビール、13度、0.4Lが日本円で240円ほど。長居しなければ、軽い食事をしても10ユーロ=250コルナ=1000円でおつりがくる。キノコとジャガイモのスープも59コルナ。ウフレクで注意すべきは、アニスなどの香草で作ったべへロフカを「食前酒」と称して配って歩くことだ。これはサービスのように見せかけた一種の押し売りである。美しい琥珀色の液体が小さいリキュールグラスで配られる。一杯79コルナ320円ほどだがビールより高い額が、しっかり勘定書きに追加されている。甘いけれど匂いはかなりきつい。口に合わない人も多いだろう。

 

Img_0459

黒ビール ジャガイモのスープ べへロフカ

 

「コーリャ 愛のプラハ」はロウカとコーリャという異質で対立しあうもの同士が、言語、民族や文化、習慣や偏見を超えて、理解し愛し合えることを両者の心の変容を描くことで表現し、世界中の共感を呼び、アカデミー外国語賞はじめ主要な映画賞を総なめにした秀作である。

 

Img_0545

モーツァルトの ベルトラムカ荘  動画

 

奇しくも今回の旅の締めくくりは、モーツァルトが何度も滞在し「ドン・ジョヴァンニ」を完成させたベルトラムカ荘だった。地下鉄B線のアンデル駅下車、徒歩で15分ほどのところに静かに佇んでいた。そこは市中の喧騒から隔てられて静謐に支配され、今にもモーツァルトが現れそうな雰囲気を醸し出していた。アンデル駅は地下鉄とトラムと市バスの乗り換え駅で、コーリャの撮影場所のひとつでもある。映画では、地下鉄B線に乗車中、ロウカは女性に、コーリャは仔犬に気を取られている間にはぐれてしまい、お互い右往左往しながらドラマチックに再会を果たした駅である。それは両者が強い絆で結ばれたことを再確認しあうシーンで、この映画の頂点をなすと言っても過言でない、それ程に感動的な場面だった。駅の出口は2か所、ロウカはバスターミナルのある正面へのエスカレーターから、コーリャはベルトラムカ荘方面へと向かう反対側のエスカレーターから上がってくる。そして「コーリャ」と呼びかけるロウカの大きな声を聴いて駆け出し、コンコースの真ん中どころで再会を果たした。ちなみに、撮影時、この駅は「モスクワ通り駅」と呼ばれ、赤い石板の壁にクレムリンの装飾が施されていた。現在はアンデル駅と改称され、写真のようにプラハとモスクワの名前が対をなし、かつての友好のシンボルとして残されている。

 

Img_0530_3    Img_0531

 

この映画、かなり作為的なものの部類に属し、一つ間違えば相当嫌味なものになっていたのではないかと危惧されたのだが、冒頭より、美しい画と音楽が実にテンポよく絶妙に配され、自己中で子ども同然の大人として見られがちだった主人公ロウカの実像も徐々に明らかになっていき、彼のユーモア溢れる反骨精神が、綿々と続く他所者の支配者の圧政に耐え続けたチェコの一般民衆の生き様と重なり、奥深く味わい深い一本に仕上がったように思われる。繰り返しの鑑賞にも耐えられる飽きの来ない佳作。ひとみが自信をもってお薦めできる極上の一本。

「のだめカンタービレ」や「プラハの恋人」のオタクにも鑑賞させてみたいものだが如何だろうか。

 

 

☆しまひとみのギリシア旅行記☆

12/08/24(1st)

 

 

しまひとみ アテネにソクラテスを訪ねて       しまひとみのギリシア旅行記

Img_0717    Img_0981

ソクラテス                  アカデミーのソクラテス像

エロースとアフロディテ      左後方は竪琴を持つアポロン 

 

2012年9月24日(月)~10月1日(月)の1週間

上海とパリ経由でギリシアのアテネとエギナ島を旅してきました。

まずは上海編からご覧下さい。

  [上海編]

10時間の乗り継ぎ時間。中国全土で反日暴動が勃発した時節。危険覚悟で上海中心部へ出かけるべきか否か。出かけました。

定刻通り、14時、上海浦東(プドン)空港到着。男女二人組の入国審査の係官は予想外にフレンドリー。1Fの税関内に「トランスチャイナ」という日本人用の乗り継ぎデスクが設置されていたはずなのに、影も形もありませんでした。尖閣国有化の対抗措置の一つなのでしょう。しかしこれは想定内でした。ここで深夜の乗り継ぎ便のチェックインを事前に済ませておく予定でしたが、搭乗の2時間前に3Fのチェックインカウンターに出向かざるを得なくなりました。

次にすべきは「行李寄存」という部署を探してキャリーバッグを預けること。まず荷物をX線で透視、パスポートをチェックしながら書類を作成、その後、自ら荷物を持ってカウンター右脇の通路から奥のロッカーへ移動、電子キーで施錠後、預かり証とキーを小さな封筒に入れて手渡されました。キャビン持ち込みサイズのキャリーバッグの場合、4時間まで10元(約140円)、10時間までだと15元(約210円)でした。

2Fの連絡通路を通って「磁浮(リニア)」の駅へ。往復乗車券を80元(約1120円)で購入。15:00 発の磁浮に乗車。15:10 龍陽路(ロンヤンルー)着。去年の高速鉄道の脱線転落事故の影響か最高時速は300km。磁浮乗車の感想は「飛行機並の加速だが、横揺れは新幹線より大きい」。

市内中心部の豫園を目指し、まずは龍陽路で地下鉄2号線に乗り換え。「地鉄服務中心(サービス窓口)」で50元(約700円)の「交通カード」を購入。

Photo_2 Photo_3 Photo
交通カード      領収証      残高照会画面

左上のカードを使用して入場しようとしたもののゲートが開かない。服務中心へ戻りその旨告げる。カードを販売したさっきの若い女性係員がパソコンの画面を見ながらキーボードをカチャカチャ操作。明らかに、英語で交通カードを購入し、30元チャージしていった東洋人を日本人と見做しての嫌がらせでした。しかしこれも想定の範囲。

Img_1035

2012.9.24  搭乗口に置いてありました。

尖閣問題で緊張下の東アジア一の大都会。そこにたった一人の日本人。群集心理で突発的に何が起きるかわかりません。市中では絶対に日本語のガイドブックは開けません。地下鉄の路線図と駅名と乗り換え駅をしっかり記憶して極力目立たないように行動しなければなりませんでした。それでも南京東路(ナンジンドンルー)で10号線に乗り換え、そこから一駅の豫園(ユィユァン)に30分ほどで無事到着。南京東路の人の流れは東京の地下鉄以上で、乗り換えには早足で10分以上かかりました。交通カードの残額は上海交通局の頁で照会出来るというので、試しにカードの番号を打ち込んでみると22元(約308円)残っていました。カードの保証金が20元、30元分チャージしてもらったので、乗り換えを含めて片道7駅間の地下鉄運賃は4元(約56円)、往復でも8元(約112円)と格安だったことがわかりました。

豫園で地上に出てみると、予想に反して、都会にある普通の街並みが続いていました。上海随一の名所・旧跡と謳われる豫園。さぞかし中国情緒に溢れた街並を想像していたのですが、見事に期待が裏切られました。大通りの交差点。高層アパート。通りの遥か向こうには超高層ビル。それらとは余りにも不釣り合いの中華スープや家禽の匂い。しかしこれこそが現在の上海のリアルな姿なのでした。

そこから豫園入口の上海老街までは徒歩で10分足らず。途中、何組かのアベックにシャッターを押して欲しいと中国語で話しかけられましたが悉く無視。外見からは日本人とはわからない証拠です。豫園老街は写真にもある通り、欧米からの観光客も多く活気に溢れていました。見事な彫刻が施され「豫園」と銘打たれた石造りの門が最も印象的でした。湖心亭で中国茶を愉しみ、南翔饅頭店で名物の小籠包に舌鼓を打つ算段でしたが、トラブル回避のため、食事は空港に戻ってからすることにしました。湖心亭の2階北側の窓側の席に案内され、5分ほど御品書の中国茶名とにらめっこし、ごく平凡にも「鉄観音茶」を注文しました。118元(約1652円)。お茶請には小さな干豆腐が出されました。綺麗に包装された洋菓子の包みも出されましたが、上海で洋菓子はないだろうと興ざめしてしまい、全く手を付けずに置いてきました。眼下には九曲橋の荷花池が、遥か北東の方角には外灘浦東の超高層ビル群が見渡せました。

残り6時間の乗り継ぎ時間をいかに使うか、当初、豫園で食事後、上海一の繁華街の南京東路を散策、黄浦江と外灘(バンド)で夕方の憩いの一時を過ごし、対岸の浦東新区の超高層ビル群に明かりが灯る頃、その中でも最も高い上海環球金融中心(ワールドフィナンシャルセンター)の地上百階474Mの展望台から上海市街の夜景、光の海を眺める予定でしたが、上海見物が旅の目的ではないため、安全第一、全てキャンセルして空港に戻りました。17:30に豫園湖心亭を出発、18:20には空港のロッカーからキャリーを取り出していました。

空港レストランの飲茶は美味しくありませんでしたが、豫園の小籠包はこんなものではないのだと思います。海老焼売にしても、味の素の冷凍食品の方が余程おいしいと思われました。横浜の中華街でも、乾物を多用する中華スープ独特の風味に戸惑いを覚えたことがありますが、それとは別次元の不味さでした。日本のラーメンは中華料理とは全くの別物ですが、中国からの観光客の多くが大満足して帰国すると聞きます。

中国と言えば青島ビール。今回初めて試してみましたが、これは普通に美味しかったです。空港内のレストランやカウンターバーでは青島の瓶ビールを35元(約490円)で販売していましたが、335ml入りの缶ビールを自販機で買うと、わずか8元(約112円)で買えました。余談ですが、帰国時、残ったコインを全てこの青島ビールに換えて持ち帰りました。富士山のバナジウム水を自販機で売っていたので、1本買ってパリ行の深夜便に持ち込みました。同じ搭乗口でアムステルダム行の搭乗手続きと重なったため大混雑でした。

日付が9月25日に変わり、離陸後30分ほどで食事が出されたのですが、もう休む時間だからと遠慮しました。フルーツとヨーグルトだけでもと熱心に奨められたので、マンゴーとサワーヨーグルトを頂いて休みました。朝食はオムレツ、デザートはチョコレートムースでどちらも美味しく頂きました。因みに、帰りのパリ~上海間のランチでライスを選択すると白身魚の竜田揚げの餡かけが出されました。恐らく北海産の鱈だと思いますが、ほくほくして淡泊、口に合いました。安い素材でも美味しく料理することは可能だという手本でした。エコノミーの食事は誰でも美味しく食べられることが第一です。フィンエアーのエコノミーは、トマトパスタの次がチキンのクリームパスタとかパスタ中心のメニューですが、国籍や宗教に関係なく誰でも美味しく食べられるという意味では理想的な機内食かもしれません。日本人の多い路線ではレトルトカレーでも出しておけば無難だと思います。

  Img_1876     Img_0602
         白身魚の竜田揚げ           フィンエアーのトマトパスタ

中国東方航空の評判に関して、ネットで調べるとぼろ糞の書き込みだらけです。私のフライトが幸運だったのかもしれませんが、往復とも定時運行、食事も美味しく、乗務員のサービスも満点で、マナー違反の乗客も見当たりませんでした。ただ飲み物はジュースもコーヒーも頂けませんでした。アップルジュース、防腐剤のせいでしょうか、舌にピリピリと刺激があり、嫌な渋味が残りました。コーヒーも今時こんな不味いコーヒーがあるのだろうかと思うほど不味い代物でした。中国茶を試してみましたがこれも美味しくありませんでした。赤ワインも中国製で美味しくありませんでした。行きは上海で日本の水を持ち込めたのがせめてもの幸いでした。帰りはパリのシャルル・ド・ゴール空港、ターミナル2EのL46搭乗口傍のキオスクで、チーズサンドとエビアンの1.5Lサイズのペットボトルを買って持ち込みました。セットで5€のコップ付きでした。

 Img_1866  Img_1863

この搭乗口の手前のベンチの向こう側の窓寄り、右側の写真の少し左側に小さなアップライトピアノが置かれています。私がここに着いた時、55歳位に見える男性がショパンのスケルツォの第1番を演奏中でした。演奏後、エールフランスの成田行きに搭乗されたのではないかと思うのですが、見事な演奏で同胞として誇らしい思いでした。ご本人には「ホロヴィッツのようでした」と申し上げたのですが、ピアノがプレイエルでなければ、ホロヴィッツが弾くスケルツォのようにメリハリの効いたショパンになったのではないでしょうか。最初から聴ければよかったのですが、残念ながら曲の半ばからしか聴けませんでした。

話が前後してしまいました。現在中国では、日本人は鬼だとか、いま日本へ行くと殺されるとか、実しやかに囁かれているそうですが、幸いにも、左隣の36Aに座った若い中国人女性は、私の肩に寄りかかり微かな寝息をたてて安眠してくれました。鬼の隣ではそうはいかないでしょう。ポケモンやドラえもんとともに大きくなった世代が日本を嫌う道理がありません。帰りの便で右隣の36Lに座った若い女性も終始にこやかでフレンドリーでした。

1  Photo_2  Photo_3

湖心亭           浦東空港       レストランのレシート 

 

以下、上海写真編へと続きます。

 

上海編

Img_0733

上海 豫園老街の入り口で櫛を商う譚木匠

 

Img_0734

活気あふれる上海豫園

 

Img_0736

上海 豫園老街

 

Img_0737

豫園老街

 

Img_0739_2

上海 豫園九曲橋

 

Img_0744

豫園 湖心亭の荷花池

 

Img_0746

上海 「豫園」

 

Img_0743_3

上海 豫園湖心亭

 

Img_0758

上海 豫園湖心亭玄関

 

Img_0760

上海 豫園湖心亭で中国茶(チャー)を

 

Img_0766

鉄観音茶 118元 (約¥1,600)

 

Img_0767

湖心亭の内装

 

Img_0769_2

湖心亭の照明

 

Img_0771

豫園から浦東を望む

 

Img_0774_2

上海 浦東の超高層ビル

 

Img_0785

上海 龍陽路駅の磁浮

 

Img_0786

上海 龍陽路駅の磁浮

 

Img_0789

磁浮 Shanghai Transrapid

 

Img_0731

磁浮 Shanghai Transrapid

 

Img_0732

磁浮 上海龍陽路駅

 

Img_0778

磁浮 上海龍陽路駅

 

Img_0730

磁浮 上海龍陽路駅

 

Img_0800

青島ビール 35元 (約¥500)

 

Img_0801_2

上海蟹ミソ入り小籠包 36元 (約¥500)

 

Img_0802_2

蝦焼売 29元 (約¥400)

 

Img_0803_1500

中国の紙幣 百元約1400円が最高紙幣

 

Img_0805

上海 浦東国際空港第1ターミナル

 

日本人向けに、売店でお土産の印鑑を彫ってくれるサービスがありましたが、幾らなんでも5分では無理でしょう。売り子さんに「本当に5分でできるの?」と訊いてみたら、彼女笑ってました。

 

 

ギリシアに到着

7月のプラハも連日35℃近くの猛暑でしたが、10月間近のアテネも35℃が続きました。アテネのエレフテリオス・ヴェニゼロス国際空港到着後、地下鉄ホームへ降りるエスカレーターでのこと。急に乾いた猛暑の外気に触れたものだから、涙は出る、立ち眩みはするで、不覚にも、長いエスカレーターの最上部でキャリーバッグを落としてしまいました。キャリーは何度も大きく弾みながら下のホームまで転がっていきました。 EMINENT 75-58671 というキャリーバッグ 、フレームの弾力性がもの凄く、多少埃を被った程度でほぼ無傷の状態でした。

軽い、薄い、丈夫、小さいのに大容量、シンプルで美しいデザイン、方向転換にやや難はあるものの、シャルル・ド・ゴール空港のような大きな空港のターミナル移動のように、延々と直線が続くような所での使用には何の問題もありませんでした。プラハ旅行は6泊7日、アテネ旅行は7泊8日。リュックとキャリーバッグ一つだけ、着替えと必要最小限の品を携行する身軽な旅の伴。キャビン持ち込み用キャリーバッグとしては最高の逸品だと思いました。

真夏のアテネ、到着前には機内で目薬を差しておくことをお奨めします。

     エミネントのキャリーバッグ   Eminent_7558671


Egaleo 行きの地下鉄3号線に乗車して間もなく、後ろの車両からアコーディオンが聞こえてきました。ゴッドファーザー、愛のテーマです。小さい男の子と女の子。ロマの奏でるヴァイオリンのように哀愁を帯びていました。後ろに従う女の子が円筒の容れ物を差し出してきました。市内中心部までの運賃は8€。10€札でチケットを購入のため、お釣りの2€硬貨がポケットの中にありました。小遣い稼ぎ?家計の扶け?次の駅で別のペアと交代したようで、今度は男の子が空き缶を突き出してきましたが、生憎もう小銭はありません。

自動改札がないため、切符には必ず専用の刻印機で乗車日時を書き込む必要があります。抜き打ちの検札時、刻印のない切符は、理由の如何にかかわらず無賃乗車と見做され、運賃の60倍の罰金を支払うことになります。日本にない方式のため特に注意が必要でした。空港往復には8€ずつ、計16€かかりましたが、地下鉄以外にもバスとトラムで無制限に使える「ウィークリー・チケット」が14€(約1400円)とお得なため、市内観光に交通費は殆どかかりませんでした。

Photo 

ウィークリー・チケットと空港往復チケット

 

Photo_4

アテネの「ラリッサ駅」

  

とても 一国の首 都の

中央駅には 見えないし、

駅の周囲には 何もない。

  

Photo_2

アテネの住まい  ラリッサ駅のすぐ北側

 

コロナキのような高級住宅街でも同じアパート暮らし。

陽避けの庇も、アテネ中、全く同じ景色でした。

 

 

ギリシア編 その1「アテネ到着の夕べ」

Img_0859

 

アクロポリスの辻音楽師  1€で演奏してくれました。

トルコのサズを改良したブズーキという民族楽器でしょうか。

中近東のような音楽に驚かされました。

 

Img_0865

アクロポリスの辻音楽師2

 

Img_0861

夕暮れのアクロポリス

 

Img_0870

夕暮れのアクロポリス

 

Img_0877_2

夕暮れのアクロポリス

 

Img_0878_2

日没のアクロポリス

 

Img_0893_2

モナスティラキ広場 右端の出店はペリプテロ

 

Img_0891

モナスティラキ広場 アドリアノスの図書館

 

Img_0907_2

アテネの葡萄(5房で2ユーロ 約200円)

 

Img_0910

Air France の機内誌は KYOTO 特集

 

 

ギリシア編 その2「アカデミー辺り」

Img_0944

映画“SMYRNA”の広告

 

Img_0945

話題の映画が6ユーロ 約600円で

 

Img_0960

2012年9月26日 アテネのアカデミー周辺で

 

Img_0965

国立図書館

 

Img_0964

アテネ大学

 

Img_0971

アカデミー

 

Img_0983_2

ソクラテス像

 

Img_0980

プラトン像

 

Img_0985_2

ソクラテスとプラトン像

 

Img_0995

アカデミーの前庭に寝そべるアテネの犬 

 

Img_0967

ストで閉鎖中の地下鉄 パネティスティミウ駅

 

Img_1000_3

ストライキで集会を行うクラフトモノス広場

一本向こうの大通りではデモの行進

 

 

ギリシア編 その3「プラカ地区」

Img_1018

アマリアス大通りからリカヴィトスの丘を望む

 

Img_1002_2

カプニカレア教会

 

Img_1007_2

カプニカレア教会 モザイクのイコン

 

Img_1017

ロシア教会

 

Img_1016_2

ロシア教会

 

Img_1021

アドリアノス門

 

Img_1023

リシュクラテス・モニュメント

 

Img_1025

リシュクラテス・モニュメント

 

 

ギリシア編 その4「国立考古学博物館」

Img_0928

国立考古学博物館

 

Img_0930

国立考古学博物館前庭

 

Img_0929_3

イオニア式の支柱

 

Img_0932

国立考古学博物館の玄関

 

Img_0939_2

玄関のプレート

 

Img_943

 

ストに連動した休館日の翌日のため無料に

通常は7€ (約¥700)

 

Img_1078

4千年~5千年前のキクラデス文明の出土品

 

Img_1071

キクラデス文明の出土品

 

Img_1099

キクラデス文明の出土品

 

Img_1114_2

3千年~4千年前のミケーネ文明の出土品

 

Photo_3

ミケーネ文明 アガメムノンマスク

 

Img_1123_2

ミケーネ文明 黄金のマスク

 

Img_1130

本当に3千年前の画?

 

Img_1131

どこかで似たようなイラストを見たような気が…

 

Img_1132

 

Img_1133

 

Img_1139

 

Img_1177_2

線画で描くとジャン・コクトーのようにも

 

Img_1199_3

紀元前7~5世紀 アルカイック期のクーロス像

 

Img_1200

アルカイックスマイル

 

Img_1201

クーロスとは青年のこと

 

Img_1235

エギナ島オナタの作とされるポセイドン像

 

Img_1237_3

美の極致として美術の教科書にも採録

 

Img_1240

ポセイドンの後ろ姿

 

Img_1242_2

ポセイドンのブロンズ像

 

Img_1286

パロス島の大理石に刻まれたアフロディテ像

 

Img_1289

アフロディテとエロース

 

Img_1279

古代の貴婦人像

 

Img_1280

      純潔の象徴 アルテミス

 

Img_1281

      生涯 独身の アルテミス

 

Img_1338

下半身が鳥のセイレン

 

Img_1191

スフィンクス

 

Img_1255

牛の頭のミノタウロス

 

Img_1293

下半身はヤギの牧神パン

 

Img_1290

アフロディテの息子エロース

 

Img_1292

牧神パンへの奉納図 パンの隣はヘルメス

 

Img_1284

馬に乗る少年も目玉の展示物のひとつ

 

Img_1282

馬に乗る少年

 

Img_1285

海底で見つかった馬に乗る少年

 

Img_1295_2

2階へ

 

Img_1297_3

中2階

 

Img_1326

2階には夥しい数の壺とこんな展示物も

 

Img_1302

紀元前8世紀 アッティカ地方の幾何学式の壺

 

Img_1208

アッティカ地方の黒絵式の壺

 

Img_1251_2

アッティカ地方の赤絵式の壺

 

Img_1307

巨大な壺も

 

Img_1260

美しいとしか言いようがありません。

 

Img_1261_2

余りの美しさに絶句

 

Img_1259

 

Img_1346_3

地下のカフェで喉を潤す

 

Img_1345_2

カプチーノとチーズケーキそしてミュートスも

14.5€(約¥1,500)

 

 

ギリシア編 その5「ピレアス港&エギナ島」

Img_1353

地下鉄ピレアス(港)駅

 

Img_1355_2

アテネの海の玄関ピレアス港

 

Img_1362_2

ヘレニック・シーウェイズのポセイドン・ヘラス

 

Img_1364_3

ポセイドン・ヘラス

 

Img_1365_2

アギア・トリアダ大聖堂

 

Img_1368_2

アギア・トリアダ大聖堂

 

Img_1371

アギア・トリアダ大聖堂

 

Img_1402_2

ピレアス港サロニコス群島行き乗り場

 

Img_1405_2

海を見つめる白髪のギリシア紳士

 

Img_1410_3

水中翼船「フライング・ドルフィン」でエギナ島着

 

Img_1412_2

ハイドロ・フォイル「水中翼船」

 

Img_1417

エギナ島リマニ港

 

Img_1435

エギナ島リマニ港

 

Img_1430_2

海辺の果物屋さん バナナ一房1€ 約百円

 

Img_1427_2

海辺のピスタチオ販売店

 

Img_1414

エギナタウンのギリシア正教会

 

Img_1431_3

ギリシアの95%は敬虔なギリシア正教の信徒

 

Img_1428

長閑な島の風景

 

Img_1433

ずらりと並ぶシーフードレストラン

 

Img_1444

猫の集まるタベルナで昼食

 

Img_1439

簡単明瞭なメニュー

 

Img_1440

烏賊の素揚げとミュートスで昼食

 

Img_1441

イカ、タコ、エビの他、米やゴマも食べるギリシア

 

Img_1419_2

1827年~1829年の独立戦争時、この島には

ギリシアの臨時政府が置かれていた。

 

Img_1420_2

陸に上がった漁船

 

Img_1423

北緯 37、5度。 日本なら 福島第1原発辺り。

 

Img_1424

2012年9月28日 気温35度。 まだまだ盛夏。

 

Img_1422

支柱1本のみのコロナ遺跡 アポロン神殿

 

Img_1429

エトネゲルシアス広場傍の並木道

 

Img_1450

エギナ・タウンを少し離れるとピスタチオの木が

 

Img_1454

美しい聖ネクタリオス修道院

 

Img_1458

聖ネクタリオス修道院の祭壇

 

Img_1464

聖ネクタリオス修道院の内壁

 

Img_1467

聖ネクタリオス修道院の内壁

 

Img_1468

ギリシア文字のΧ カイ とΡ ロー でキリストを表す。

魚は、ローマ帝国にキリスト教が禁止されていた頃、

イエス・キリストのシンボルとして使用された。

 

Img_1469

しまひとみの掌にも魚が

 

Img_1480

イコンとロウソク

 

Img_1478

美しい聖ネクタリオス修道院

 

Img_1476

ツツジの仲間だろうか 百日紅!

 

Img_1472

2時間 60 € 約 6千円 で借り上げたタクシー

 

Img_1526

アフェア神殿から見るエーゲ海

 

Img_1515

松とピスタチオのみの荒涼殺伐とした風景

 

Img_1489 

アフェア神殿 ドーリア式の支柱

大理石ではなく石灰岩の支柱

Img_1493

レスピーギに「ローマの松」という作品がある。

これはギリシア「エギナ島の松」。

 

Img_1486_2

アルカイック期を代表するアフェア神殿。古代、

エギナ島は独立した都市国家として、アテネの

ライバルだったこともある。

 

Img_1496

アフェア神殿のドーリア式の支柱は24本。

 

Img_1516

松の木陰からアフェア神殿を望む

 

Img_1531

元船員も多く日本にフレンドリーな島だった。

 

Img_1530

アテネへの帰路に乗船したポセイドン・ヘラス

 

Img_1551

帰路は一群の鷗と戯れる

 

Img_1559

ピレアス港まで 30キロ、約65分の船旅

 

Img_1560

2012年9月28日、アテネの日没は 19:12

 

Img_1566

エーゲ海に沈む夕陽

 

Img_1573

ピレアス港の夕陽

 

Img_1577

ピレアス港の夕陽

 

Img_1585

ピレアス港のギリシア人

 

Img_1589

日没直後のアギア・トリアダ大聖堂

 

Img_1590

日没直後のアギア・トリアダ大聖堂

 

 

ギリシア編 その6「シンタグマ広場」

Img_1604

アテネの中心 シンタグマ広場

 

Img_1615

1872年開業 5つ星のグランド・ブルターニュホテル

 

Img_1595

国会議事堂

 

Img_1597

無名戦士の墓

 

Img_1598

「伏している無名の戦士のために

空の寝台が運ばれてくる」(トゥキディデス)

 

Img_1599

「英雄たちにとっては、世界のすべてが

墓となりうる」(トゥキディデス)

 

Img_1601

日曜日は大規模な衛兵の交代式が観られる。

 

Img_1602_2

向かって右側の衛兵 靴のポンポンが可愛い?

 

Img_1603

左側の衛兵  エヴゾナスという民族衣装で立つ

 

Img_1607

無名戦士の墓を背後に寝そべるアテネの犬

 

Img_1609

国会議事堂のオブジェ

 

Img_1617

ヴァシリシス・ソフィアス通りの花屋

 

Img_1622

ヴァシリシス・ソフィアス通りの ギリシャリクガメ

 

Img_1627

国立庭園の植え込みの中から 突如 現れた

 

 

ギリシア編 その7「コロナキ&リカヴィトス」

Img_1631

コロナキの街路樹  ムクゲ 木槿

 

Img_1634

美しい紫の花

 

Img_1632

コロナキの街路樹

 

Img_1650

コロナキの書店

 

Img_1646

コロナキから見たリカヴィトスの丘

 

Img_1652

コロナキの猫

 

Img_1656

コロナキの猫

 

Img_1687

コロナキからアテネ市街を望む

 

Img_1657_3

リカヴィトスの丘へのケーブルカー乗り場

 

Img_1684

ケーブルカーを降りると 標高250m の高台

 

Img_1659

標高273m  リカヴィトスの丘からの眺め

 

Img_1665

リカヴィトスの丘からの眺め

 

Img_1666

リカヴィトスの丘からの眺め

 

Img_1667

リカヴィトスの丘からの眺め

 

Img_1669

リカヴィトスの丘からの眺め

 

Img_1673

パナシナイコスタジアム

 

Img_1672

パルテノン神殿も眼下に見下ろす

 

Img_1683

頂上には美しい白亜の建物 

ガイドブックにはないが、聖ゲオルギオス教会らしい

 

Img_1690_2

地下鉄のエヴァンゲリスモス駅

 

 

ギリシア編 その8「モナスティラキ」

Img_1838

地下鉄 モナスティラキ駅

 

Img_1841

地下鉄 モナスティラキ駅

 

Img_1845

地下鉄 モナスティラキ駅

 

Img_1836

モナスティラキ

 

Img_1384

モナスティラキ アドリアノスの図書館

 

Img_1835_2

アドリアノスの図書館

 

Img_1837

ローマン・アゴラ

 

Img_1832

日時計、水時計、風見の3役を兼ねた風の神の塔

 

Img_1831

風の神の塔

 

Img_1835

モナスティラキで

 

Img_1696

モナスティラキのレストランで昼食

 

Img_1697

カフェ・レストランマイアンドロス(メアンドロス)

 

Img_1700

片言の日本語で呼び込みに成功

 

Img_1707

白い器はパセリ入りのマヨネーズ

 

Img_1705

ギリシアビールのミュートスは定番に

 

Img_1706

リゾットを野菜に詰めてオーブンで焼いた料理 超美味

 

Img_1704

1865年当時のモナスティラキ

 

Img_1826

モナスティラキの犬

 

 

ギリシア編 その9「古代アゴラ」

Img_1710

2012年9月29日(土)  旅の締めくくりは古代アゴラ

 

Img_1714

国立考古学博物館同様 無料券で

 

Img_1747

最も原型を残したヘファイストス神殿

ヘファイストスの妻はアフロディテ

 

Img_1758

ドーリア式の支柱

醜なるヘファイストス 美なるアフロディテ

 

Img_1761

ドーリア式の支柱

 

Img_1719

パルテノン神殿とほぼ同じ時代に建築された。

 

Img_1750

ヘファイストス神殿とリカヴィトスの丘

 

Img_1751

ヘファイストス神殿とリカヴィトスの丘

 

Img_1754

古代アゴラから見たリカヴィトスの丘

 

Img_1716

ヘファイストス神殿は紀元前5世紀

ソクラテスが活躍した時代の建築物

 

Img_1740

ソクラテス、プラトン、アリストファネス。

2千5百年前、彼らはここで生活していた。

 

Img_1715

アグリッパの音楽堂 

右端が巨人像  残り二つはトリトン像

 

Img_1723

アグリッパの音楽堂 頸のない巨人像

 

Img_1811

英雄の聖域   ローマのアドリアノス帝

ソクラテスも 3度出征した重装歩兵 だった。

 

Img_1737_2

アギイ・アポストリ教会 ビザンチン様式の教会

紀元 千年頃 の創建

 

Img_1755

アタロスの柱廊 古代アゴラ博物館

 

Img_1722

アタロスの柱廊 古代アゴラ博物館

 

Img_1785

トロス    円形の 評議員たちの詰所跡

 

Img_1788

トロスの心柱の上に土鳩が

 

Img_1783

何の鳥?

 

Img_1796

何の花? 何の実?   Lantana camara

 

Img_1772

古代アゴラから見たパルテノン神殿

 

Img_1789

ブーレウテリオン 評議会の開催場所跡

 

Stoa of Zeus Eleutherios

Stoa_of_zeus_eleutherios

ゼウス・エリテリオスの柱廊

 

Img_1813

ゼウス・エリテリオスの柱廊

ソクラテスが哲学論議を交わした伝説の場所

 

Img_1814

ゼウス・エリテリオスの柱廊

 

☆今回の旅のベストショット☆

オリーブと松葉の橋が架かっていました。

  

12/10/17(1st)